<僕の夏休み> 三女:陽子 その1

 

 

「……陽子……」

バスから降りた僕が声を掛けると、そいつはにやりと笑った。

僕の母方の従姉妹――美月、星華、陽子の三姉妹の三女、陽子(ようこ)だ。

「おっす、生きてたか、彰!」

挨拶もそこそこに、いきなりの憎まれ口。

「お前こそ!」

今年高校に入ったばかり、同い年の従姉妹との会話は、ちっとも「いとこ同士」らしくない。

一緒に暮らしている兄妹──というよりは、まるっきり兄弟だ。

あながち、まちがってはいない。

僕に双子の弟が居たとしたら、多分それは、陽子みたいな存在になるんじゃないだろうか。

二卵性で見た目はちょっと似てないし、性格も得意なこともちがうけど、だれよりも近しい兄弟。

それが、僕が陽子に抱いているイメージだ。

 

──僕は、毎年夏休みの最初の日にここにやってきて、最後の日に帰る。

冬休みも、春休みも、ゴールデンウィークも。

そのことを不思議には思わなかった。物心ついた時からの習慣だったからだ。

そして陽子を実の兄妹――こいつはお転婆だから兄弟か──のように接していることにも。

陽子も、同じような気持ちで僕に接しているということにも。

……だけど。

だけど、今年の夏、僕はじめてそのことを意識した。

志津留(しづる)家の「お定め」を知った夏に──。

僕が当たり前に生きてきた世界が揺らいだ夏に──。

 

「……」

僕が何を言っていいかわからないまま立ち尽くしていると、

陽子は、ちょっと首を傾げてこちらを見ていたが、

やがて思い出したように手に持っていたものを僕に差し出した。

「はい、これ」

差し出されたものは──僕の麦わら帽子。

見慣れたそれを目にして、僕のなじんだ世界がすっと戻ってきた。

──今は。そう……今だけは。

 

「うん、彰は、それがなきゃはじまらないよな!」

陽子は、麦わら帽子をかぶった僕を見て、嬉しそうに笑った。

その笑顔につられて、僕も自然に笑顔が出た。

「毎年かぶってるからな」

「そうだなあ、こっちは、夏、暑いしね……」

「あっちだって夏は暑いよ。アスファルトの照り返しはきついし。

なんだか暑さの質がちがう……っていうか。こっちの暑さのほうがよっぽどいい」

「あはは」

陽子は屈託なく笑った。

ぱちり、と指を鳴らす──機嫌のいい時の陽子の癖。

「彰、どうする? 車、呼ぶ?」

「本家」のお屋敷は、バス停からさらに相当な距離がある。

バス停は山のふもとで、「本家」の本宅は山の中腹に建っているからだ。

というより、この山と、その背後に広がる森と、つまりこの辺一帯全部が志津留家のものだ。

あんまり広いので、携帯電話──ちょっと前まではバス停の横にある公衆電話から

お屋敷に電話をかけて、お手伝いのだれかに車をまわしてもらうかどうか、聞いているのだ。

ちなみに、駅まで車を回してもらうことはもちろんできるけど、僕はそうしたことは一度もない。

さっきまで乗ってきた、くたびれたバスにゆられてこのバス停に降り立つことこそが

「夏休みのはじまり」のような気がしてならないからだ。

そして、バスから降りた後の行動も決まっている。

「うーん。歩いていこうかな――まだ陽が強くないし」

朝早くに出発したおかげで、まだ昼までにはだいぶ時間がある。

エアコン熱やらビル熱やらがない自然の中にあっては、午前中はけっこう涼しい。

僕はその空気がとても好きだった。

「あははっ! そう言うと思った」

陽子は、もう一度指をならした。

 

「つーか、お前、重くない、そのバッグ?」

お屋敷に至る道すがら、僕は、陽子が肩から下げている大きなスポーツバッグが気になって聞いた。

「んー。毎日担いでるから全然気にならないよ」

「何入ってるんだ?」

「え……ユニフォームとか、タオルとか。色々」

「あー、お前、ソフトボール部に入った、とか言ってたな」

「おう! 今日も練習だったんだぜ」

陽子は日に焼けた顔をゆるめて、にしし、と笑った。

「あ、それで夏休みなのに学校の制服着ているのか……僕はてっきり……」

「てっきり?」

「――成績悪いんで、補習受けてたのかと思った。」

──ガツン。

「……いってえ! グーで殴りましたよ、グーで!」

「源龍天一郎直伝、鉄拳制裁グーパンチだ!」

陽子は大ファンになっているプロレスラーの名前を挙げた。

<漢の中の漢>といわれるそのレスラーは、まったくもって、この男女の趣味に似つかわしい。

──ドスッ!

「……い、いってえ! ゲホゲホッ……喉元に逆水平チョップはやめろ!」

「源龍チョップ! ふん、今、心の中であたしの悪口考えてたろ?」

す、鋭い。

なんでこいつは僕の頭の中を読めるんだろう?

「ぐっ、──だいたいなあ、ツッコミの逆水平というのは、胸板にやるのが基本だぞ。

源龍だって、タイトル戦とか、潰しあいとか、新人を鍛える試合しか、喉元ヴァージョンは使わないだろーが!」

「あ、あれっ?! そ、そうだったっけ?」

僕も陽子以上のプロレスファンだ。

「つーか、お前は全然プロレスというものが分かってない。説教してやる、ちょっとそこに正座しなさい!」

「い、いや、ここ、坂道だし……」

結局、僕は歩きながら陽子にプロレスのチョップについて熱く説明し始めた。

 

「――逆水平、つーかバックハンドチョップというのはだな、

斜めから入って、小指の面を当てた瞬間に、すぐに手首を返して手のひら全体をぶつけるんだ。

同時に踏み込んだ足でマットに大きな音を響かせて、会場を沸かせる。これが作法つーもんだ。

やってみろ!」

 

「こ、こうか?」

ぱん!

「ちがう! 最初から手のひら全体当てたんじゃ、痛みが客に伝わらない!」

 

「――こうか?」

ばん!

「踏み込みが甘い!」

 

「――こうか!」

バーン!

「それだ!」

 

合格を出すと同時に、僕は胸板を抑えてしゃがみこんだ。

「いてて……」

陽子の渾身のチョップを三発。いかに胸板とはいえ、これは効く。

……というか、道端で何やってるんだ、僕たちは?

「だ、大丈夫か、彰?」

陽子が慌ててのぞきこんできた。

お転婆で、口より先に手が出るタイプだが、こういうところは可愛い。

「だ、大丈夫だ。――今のタイミングを忘れるな!」

「おう! ……本当に大丈夫か? ごめん、調子に乗ってやりすぎた。

お返しに、彰も、三発チョップしていいから、さ……」

立ち上がった僕に、陽子はぐっと胸を突き出して言った。

「え゛!?」

予想外のことばに、僕は目を白黒させた。

 

(やりすぎたから、やりかえしていいよ)

──僕と陽子との間では、よくある会話だ。

美月ねえや星華ねえ相手とは違って、同い歳の僕たちの遊びは、いつも全力だし、本気だった。

何回もぶつかり合って、二人の間で自然に出来上がった決め事。

(やられすぎたら、やりかえす。やりすぎたら、やりかえされる)

(一方のやり逃げ、やり得は、許さない)

(二人の間が「ちょうど同じくらい」になるまで、物ごとを終わりにしない)

小学校入学の頃に取り決められたその不文律は、

ハンムラビ法典の太古から「最高の法律」とされるルールだ。

その不文律ができてから、僕と陽子の仲は以前にまして緊密になった。

(こいつは、逃げないし、ずるもしない奴だ)

子供心に、そうした信頼関係が生まれ、堅固になるのと、

僕たちのじゃれあいが一層激しくなるのとは同じ過程だった。

 

……でも、今回は……

「どうした、彰、やり返せよ」

陽子はぐっと胸板を押し出した。

いや、お前さんのそれは──胸板じゃない。

セーラー服の夏服を「むにっ」と押し上げている塊は、男には絶対にないものだ。

「い、いや、いいよ」

「なあに、遠慮してるんだ。――「やられすぎたら、やりかえす」のが、あたしたちのルールじゃん」

陽子は無造作に言ったけど、言ったけど……

「〜〜〜!!」

女性の身体にも、乳房の上、鎖骨の下辺りに、いわゆる胸元と呼ばれる部位がある。

そのあたりに手加減してチョップすればいいだけの話なのかもしれないけど、

──一度意識してしまった僕は、とても陽子に触れられない。

いわゆる「おっぱい」に手があたってしまったら……。

「なーにを、まごついてるん……!?」

煮え切らない僕に詰め寄りかけた陽子の動きが止まった。

自分の胸元と、僕の顔を交互に見る。

「……」

「……」

何かを理解したような表情になった陽子は、顔を真っ赤にした。

──ここ数年、こんな感じだ。

まったくの五分の「兄弟」分として育ってきた僕たちは、

お互い成長し、身体が男女の差を見せるようになってきてから、時折こういう風になる。

小学生の頃、会うたびに比べあっていた身長は、

もう、それまでのようなデッドヒートを繰り返すことがなくなった。

僕のほうが、十センチ近く背が高くなってしまったから。

泥んこになって遊んだ後に、一緒にお風呂に入ることもなくなった。

陽子の胸はどんどん大きくなって、いつのまにか、スタイルも女らしくなってしまったから。

二人のじゃれあいも、口げんかで終わることが多くなってきた。

でも、僕も陽子も、そんな二人の関係に、正直戸惑っている。

もどかしい。

もっと近づきたい、昔のように屈託なく遊びたい、と思う気持ちはお互いが持っているだろう。

だけど、もうそれは、永遠に叶わないことなのかもしれない。

 

……それに、今年は──。

 

「……え、えーと、その、あははっ、い、行こうか……」

「あ、ああ、そうだな。道端で逆水平チョップ合戦に興じるところを警察に通報されても困る」

「彰がノリすぎるから、悪い」

「お前だってノリノリだったじゃないか」

「あ、あはは」

なんとなくぎこちない会話を続けながら、僕らは坂を上ろうとした。

坂が折れたところが、ちょっとした広場になっている。

お屋敷の車が道の途中ですれ違ったり、何かあった時に停車するのに使うスペースだ。

何箇所も作ってあるけど、坂の最初のそこは、

今通ってきた道や山の上のほうにも見晴らしがよい、僕らのお気に入りの場所だ。

陽子は、そこでふと足を止めた。

視線をちょっと上げて、向こうのほうを見つめる。――今登っている山の、七合目くらいを。

「……なあ、彰……」

「何だ、陽子……?」

「今年は、<上の神社>に行く?」

──僕の心臓はどきりとした。

 

「本家」がある山の七合目くらいには、神社がある。

街中にある神社と区別をつけるために<上の神社>と呼ばれているけど、

志津留の私有地の中にあって、「本家」が宮司を勤めていることになっている、誰も参拝に来ない神社だ。

ずっと昔は、陽子と何度も遊びに行ったものなんだけど、

あるとき、二人で夜中まで遊んで帰ってきたとき、お爺さんや美月ねえにものすごく怒られて以来、

僕たちはそこに行く事を禁止されていた。

もう十年近く前の話だから、今なら別に行っても怒られはしないだろうけど、

めちゃくちゃ優しい美月ねえが、涙をぽろぽろ流しながら激しく怒る姿を見て、

僕らは、子供心に、そこへ行く事を封印した。

 

「――いつか大人になって、美月ねえたちに心配かけないで済むようになったら、もう一回行こうな」

それは陽子との約束だったが、この数年、それを口にすることもなくなっていた。

だけど陽子は、ふいに、ほんとうにふいに、その話をした。

今年、僕に知らされた、僕と従姉妹が「やらなきゃならない」ことを知った今、

陽子があの神社のことを口に出したことに、――僕はちょっと大きな衝撃を受けた。

 

……なぜなら、僕らがあの日、神社に夜遅くまでいたのは……

……あの日、僕たちが見たものは……。

 

 

「――ふう」

それからは特に何があったわけでもなく、僕たちはお屋敷に着いた。

美月ねえは、さっき街のお祖父さんのところへ行った。

ここからちょっと離れた大学に行くのに独り暮らししている星華ねえは今日の夕方に帰ってくる予定だから、

僕は陽子とふたりで昼食を食べた。

──陽子がお肉をたっぷり入れた野菜炒めを作り、

──僕が冷蔵庫のあまり物を刻んでぶち込んだチャーハンを作る。

シンプルかつ、大雑把かつ、脂っぽい組み合わせだけど、

高校生の若い胃袋的には、ものすごくうまい。

はっきり言って、お手伝いさんの誰かが作ってくれる料理よりも。

本当なら、陽子は志津留「本家」のお嬢様だから、そんなことをする必要はない。

でも、こいつは、「お手伝いさんの手をわずらわすのもなんだから」と言って、

自分や僕――家族の分の食事は極力自分で作ろうとする。

そんな陽子を見て、僕も手伝うようになり、二人の時はお互い一品ずつ作って食べる習慣になった。

……まあ、白状すると、二人して料理を作るようになったのは、小学生の時に、

<マスター味っ娘>と言うアニメでやっていた料理対決をまねっこしようとしたのがきっかけだけど。

あの時、僕らの作ったカレーを食べた美月ねえと星華ねえは悶絶したけど、

その後で、徹底的に料理の基本を僕らに叩き込んでくれた。

おかげで、今の陽子と僕は、高校生にしてはかなり料理が上手いと思う。

 

チャーハンと野菜炒めをお腹一杯食べた後、僕は、客用の部屋──というと陽子は、怒る。

訂正──「僕の部屋」に荷物を入れ、昼寝をすることにした。

朝からの移動や、ここまで歩いたこと、それにこの間から気に掛かって仕方のない問題とか、

いろいろなことが重なって、涼しい風が入る部屋の中で、僕はすぐに寝入ってしまった。

そして、夢の中で、僕は数日前の事を思い出して、ひどくうなされた。

 

 

……。

……。

「――子供を作る?! ――陽子と、僕が?!」

夏休みに入る直前に、母さんから言いわたされたその話は、僕にとって青天の霹靂だった。

 

志津留(しづる)家は、平安から続く名門の支族で、この家自体も千年続いた名家だ。

公家侍の出で神官の家系と称して、お屋敷の近くの神社の宮司も兼ねているけど、

その本質は──もっと秘された存在。

それは、門外不出の「弓」の技を学んだ一族の人間には肌で感じ取れる。

……でも、その繁栄が、その総本家から分かれて以来連なる「血」の為せる業と言うのは、

「知っていた」けども、「理解していなかった」のかもしれない。

──平安の闇から生まれた七篠家と、その七つの支族は、

たった十数人の一族郎党で、強大な「敵」と戦うために、

一族を増やし、無理やりに「血」を重ねて強化することで力を得てきた。

怨敵を滅ぼした後もその「血」の力で、「ものの流れ」を感じ取り、操ることで一族は繁栄した。

志津留家の事業が成功してきたのも、その力によるところが大きい。

「力」を「血」に秘めた一族は、子供に血をつないでいくことでしか繁栄を得られない。

だからこそ、「本家」は薄まりつつある一族の「血」を再度結集することを決めたのだ。

 

──もっとも志津留の「血」を色濃く引き、そして一族の中で唯一の若い男である僕と、

現在の「本家」の三姉妹、その中でも僕と一番相性が良い、と判断された陽子とを交わらせることを。

 

「――志津留家の「血」は、他の六支族に比べて、だいぶ薄まっています。

本来、最も志津留の「血」が濃く出ていて、当主となる子を産むはずだった私が、

あなたのお父さんと結ばれるために家の外に出たせいで、本家に残った「血」は弱まってしまったのです」

目を伏せ、申し訳なさそうに説明した母さんは、いつもの母さんではなかった。

父さんと母さんが結婚するのに、「本家」との間でなにか揉め事があったのは、

子供心にも気付いていた。

夏休みや冬休みといった長期の休みの間中、僕が本家に行くようになっていたのも、

最初の一、二年以外は、両親がそれに付き添うことがなくなっていたのも、

何か理由があることなのだろうとは思っていた。

だけど、それがこんな荒唐無稽な話だったなんて……。

 

……だけど、僕は、そんな家のしがらみをすんなりと理解することが出来ていた。

なんとなく、志津留の家が普通とは「ちがう」ことはもうずっと前から気がついている。

それがどうやら、婚姻と血縁関係、つまり「血」の中にあるものだということも。

僕は──そして陽子たちも、見えないものが見えたり、見えてはいけないものが見えたりする。

感じ取れるはずのないものを感じ取り、時々、それを操ることさえできる。

それは、日常生活に差し支えのあるものではないから、気にしていないけれど、

もっと大きな「力」――一族の繁栄とかそういうものを含めて──に直結しているのは容易に想像がついた。

母さんから詳しく聞くまでもなく、その「力」のある人間が、当主として志津留の本拠地にいない限りは、

一族は衰退し、滅ぶしかないぎりぎりのところまで来てしまっている、ということも。

 

そして、その「力」のある当主とは、老いて衰えたお祖父さんではもうだめだし、

僕の母さんでも「力」が足りないし、陽子たち姉妹でも、僕でも「血」が薄い。

──僕と陽子との間に生まれた子供、ではじめて十分な「血」の濃さと「力」をもつことができる、ということも。

 

けれど、頭で理解していても、それが逃れられない宿命だとわかってしまっていても、

僕の心の中は複雑だった。

……陽子と、子供を作る?

生まれてからずっと兄妹のように育ち、仲良く遊んできた子と?

僕は、その話を聞かされたとき、足元の地面が崩れるような衝撃を受けた。

家族──実の妹と交われ。

そう命令された人間のように、僕はショックと本能的な嫌悪感を抱いた。

 

陽子。

僕は、こいつのことが大好きだ。

でも、それは、双子の妹とか、弟のような存在という意味で、であって、

夫婦だとか、子作りの相手とか、そういう生々しい行為の対象としてではない。

陽子。

いつでもいっしょに転げまわって遊んで、なんでも一緒にやって、

毎日喧嘩して、毎日仲直りして、こいつと二人なら何でもやれると思っていた親友以上の親友。

そんなそんな思い出ばかりがある相手。

僕にとって、もう一人の僕のような存在。

そんな奴と、獣のように交わって子供を作るだなんて、

──それは僕が今まで生きてきて築いた「良い思い出」を、すべてぶち壊してしまうようなものだ。

だけど、僕はその「お定め」から逃れられない自分を一瞬で悟ってしまっていた。

目を伏せた母さんが、ぽつぽつと語る、志津留家の話が本当のことだというのにも。

いままで漠然と感じていた不思議が、ジグソーパズルがぴたりとあてはまって完成したように

すべての答えに導かれたことで。

……けれど、頭で理解したって、心が納得しない。

納得しないまま、僕はここまで来てしまった。

 

 

……。

……。

僕が目を覚ましたとき、外はもうオレンジ色にそまりかけていた。

いつの間にか、夕方近くまで眠っていたらしい。

「彰、起きたか?」

しばらくして、ふすまの外から陽子の声がした。

「あ、うん」

「そう。疲れているみたいだから起こさなかったけど、……起きたんなら魚釣りにでも行かない?」

「ああ!」

僕はお腹にかけていたタオルケットを跳ね除けて立ち上がった。

魚釣りは、陽子との最高のゲームだ。

夕方の一時間は、朝釣りとはまた違った面白さがある。

汗で濡れたTシャツを着替えて、部屋の外に出た。

 

「にしし、今日は負けないぜ、彰」

僕とお揃いの麦藁帽子をかぶった陽子は、いつもの魚釣り道具を持って走り出した。

行き先は、近所の小川。

軽やかに走り出す陽子を追って、同じ格好の僕が駆け出す。

オレンジ色が濃くなり始めた光の中で、

それは、ずっと昔から変わらない風景だった。

ずっと、ずっと変わらない風景だった。

 

……これからもずっと……?

 

「……二人してボウズって、珍しいよね……」

「うーん、どっちかは一匹は釣ったもんなあ……」

一時間後、まだ夕日が沈みきらないうちに僕らは釣りを切り上げた。

なんとなく気がそぞろで、一匹も釣れなかったせいもあるけど、

夕焼けの中を帰るのは──けっこう好きだ。

昔、小学校の頃、陽子と遊ぶときは、いつもこれくらいに帰っていたので、

最初から夜まで遊ぶぞ、と決めていないときは、自然に今頃に足が屋敷を向く。

陽子と僕は、林の中の道を戻って、バス停のある公道まで戻った。

「……あれ?」

バス停に、誰かいる。

「――!」

「――!!」

「――――!!」

「――――――!!!」

なにやら声を強めて言い争っているのは、小学校の中学年くらいの男の子と、女の子だ。

男の子のほうには見覚えがある。

「ケン坊じゃないか……?」

それは、このバス停のあたりに家がある、お屋敷のお手伝いさんの子どもだった。

「あ、女の子の方も見たことあるなあ。

たしか街の方の子で、ときどきケン坊のところに遊びに来ている」

ピンクのポシェットを肩から下げた女の子は、大きな声でケン坊と言い争っているけど、

僕らは、そんな二人を止めようとは思わなかった。

あれは──仲がいい者同士のコミュニケーションだからだ。

気の強そうな女の子に、ちょっとケン坊が押され気味に見えるけど、ケン坊はもともとが優しい子だ。

結局は、女の子はそうしたところに惹かれてケン坊の家まで遊びについてきているのだろう。

ちょっとしたいさかいごとは──この子たちにとって空気と水とオヤツくらいの普通の出来事だ。

「……しかし、ケン坊も、なかなか隅に置けませんな!」

「置けませんな!」

「……これは、ちょっと詳細を知りたいものですな、ウヒヒ」

「知りたいものですな、ウヒヒ」

<ご近所の噂大好き奥様>モードに入った僕らは、こっそりバス停に近寄ろうとした。

 

「あ……お姉ちゃん、お兄ちゃん……!」

しかし、幼い痴話喧嘩の内容を聞き取る前にケン坊がこちらに気付いた。

正確に言うと、女の子の剣幕に押されてたじたじになって左右を見渡したところに僕らがいたのだ。

「よう、ケン坊!」

何食わぬ顔をして挨拶をする。

休みの間しかこっちに来ないとはいえ、お手伝いさんの子供のこの子とは僕も顔見知りで、

「末っ子」の陽子と僕にとっては(僕は一人っ子だけど)弟分のような感じで、しょっちゅう一緒に遊んでいる。

「〜〜〜!」

ケン坊に噛み付きそうな勢いだった女の子が、後ろの僕たちに気が付いてケン坊からぱっと離れる。

真っ赤になった顔が可愛い──というよりかなり美少女系の女の子だ。

こりゃ、大人になったら美人になるぞ。

ケン坊、隅に置けないどころか、大威張りでど真ん中に座ってていいぞ。

「何してたの?」

陽子が笑いながら(本人はニコニコのつもりだろうけど、傍からだとどう見てもニヤニヤだ)笑いながら声を掛ける。

「う……」

「な、なんでもないですっ……ねっ、ケンちゃん!」

「う、うん、あ、そうだ、バス! バスを待ってたんです!」

「そ、そう! バス待ってたの!」

ケン坊とそのガールフレンドは真っ赤なほっぺをさらに真っ赤にして答えた。

「んふー、バス待ちー? の、割にはぁ〜〜」

陽子が何か追求の一言を言おうとしたところで──。

ブオー。

バスが間抜けなクラクションの音を上げながら走ってきた。

「あっ、来た! 紗紀(さき)ちゃん、またねっ!」

「うん、ケンちゃん、またねっ!」

ぴったりと呼吸の合った、有無を言わせない勢いで二人は言い立てると、

紗紀ちゃんはダッシュでバスに乗り込んだ。

「……気をつけて帰るんだよ!」

50年をともにした夫婦もかくや、という阿吽の呼吸のコンビネーションの前には、

さしもの陽子もそういうのが精一杯だった。

「はぁい! ──ケンちゃん、また明日ねー!」

「うん、また明日ぁー!! お兄ちゃん、お姉ちゃん、バイバイっ!」

見送りが終わるやいなや、追及を避けてケン坊は駆け出し、僕らはバス停に取り残された。

「……若い者は、元気が良いですな」

「良いですな」

「何を話してたんだろうね?」

「……なんだろうねー?」

僕らは、くすくす笑いながら歩き出した。

「――そういや、ケン坊ってさ……」

僕は、何かを言おうとして、ことばを失った。

道は曲がり角に来ていて、ちょうど向こうの林の切れ目から、

「上の神社」の屋根がちょっと見えるところだった。

「――ケン坊がどうしたって? ……!!」

押し黙った僕を不思議そうに見た陽子が、僕と同じものを見て同じくことばを飲む。

 

……「上の神社」とケン坊。

誰にも言えない秘密だけど、陽子と僕にとっては、それは一つに重なった記憶だ。

 

──僕らが、「上の神社」に夜遅くまでいて怒られたのは、実は遊んでいて遅くなったのではない。

あの日、僕たちは、神社で<大人の逢引>を見てしまったんだ。

 

 

 

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