<私が私でいられる時>・2

 

「んっ……くっ……」

薄暗がりの中で、私の声が漏れる。

常夜灯のオレンジ色の光だけが、小さな世界を照らしている。

私の部屋を。

お屋敷と呼ぶには小さく、普通の家よりはかなり大きいこの家の、

隅っこの四畳半相当のフローリング部屋が私の城だった。

彩――<妹>の隣の十畳サイズの部屋を選ばなかったのは、正解だったと思う。

義父が私のために用意していたそこに入っていたら、

あの娘からどんな嫌がらせを受けていたか、分からないから。

<妹>の部屋はそれよりさらに大きかったけど、<姉妹>の部屋が隣同士に並べば、

彩は絶対にそれを許さないだろう、ということは会ったその日に確信した。

 

張り合わないこと。

<姉妹>だと思わないこと。

「後妻の連れ子」に徹すること。

 

それが、一番の処世術だと思ったし、そしてそれは正しかった。

彩の部屋からも、両親の寝室からも遠いこの部屋は、

眠るとき、ある程度はプライベートを与えてくれる。

こんな風に、自慰をする自由くらいは。

「んんっ……ふううっ……」

粘膜の縁(ふち)をさまよう指先は、熱い蜜を絡ませている。

パジャマとショーツを脱がずに手を差し入れて始めてしまったのをちょっぴり後悔する。

ショーツはおろか、パジャマにまで染みとおってきそうなほど、私のあそこは濡れていた。

(私、こんなカラダしてたんだ)

指先から伝わる、後から後からあふれ出てくる蜜の多さに、私はびっくりした。

ここ数日で知った自分の性器や身体の中身の発見。

私のカラダは、すごく牝だった。

ついでに、こんなにオナニーが好きな、いやらしい娘だということも知った。

今まで、自慰なんて数えるくらいにしかしたことなかったし、

何かの際にしてしまったときなど、ベッドの中でひどい罪悪感に包まれた。

でも、今は──。

 

「んくっ……!!」

布団の中で、身体が跳ねる。

「……んあっ……新治く…んっ!!」

達する瞬間、私は、その男(ひと)の名前を呼んだ。

ぎゅっとつぶった目蓋の裏に、ジージャン姿の男の子が浮かぶ。

そして、その声も。

(綾ちゃん)

「んああっ……!!」

私は強くのけぞった。

毛布の端を強く噛んで必死にあえぎ声を殺す。

甘い絶頂は、長く長く私の心と身体を満たした。

「……ふうっ……ふうっ……」

息をするのも忘れてむさぼった快感がゆっくりと引いていくと、

私は、獣のように荒い呼吸で酸素を取り込もうとした。

(綾ちゃん)

新治君の声がまだ耳に残っている。

その声で達することが出来て、私は最高に満足だった。

この二週間、毎日オナニーしている。

新治君のことを考えて。

自販機コーナーでの逢瀬は、もうそれだけ続いていた。

新治君と再会したその晩から、私の自慰狂いは始まった。

(綾ちゃん)

その名前、私の本当の姿を認めてくれる呼称は、

私が自己防衛のために身につけていた硬く冷たい鎧をあっさりと素通りし、

ハダカの私を直撃した。

いつの間にか、新治君のことを大好きになっている自分に、私は戸惑った。

新治君が、冴えない子だということはわかってる。

小学生の頃、いじめられっ子だった「オタク」な男の子は、

高校生になっても、やっぱり冴えなくて、

世間一般的には、「モテない男の子」の典型だということも。

でも──だから何?

 

あの男(ひと)は、私を名前で呼んでくれる。

それは、私にとって、一番大事なことだった。

私を「綾ちゃん」と呼んでくれるということ。

それは、私を「石岡綾子」として認識してくれているということ。

それは、私を「私でない今の私」ではなく、「本当の私」として認めてくれているということ。

 

……それは、私にとって、世界で一番価値のあることだった。

 

この家の、この街の、いいえ、今となっては日本中の誰もが呼んでくれない

その名前で呼んでくれるから、私は新治君を大好きになった。

世界中の誰よりも、一番に。

愛している、と言い切れる。

そうでなければ、毎晩、彼のことを考えてオナニーなんかしない。

「好き」

「大好き」

「愛してる」

「……新治君……」

脱力感と快感の余韻に火照った身体を預け、

私は天井を見つめながら私はそうつぶやいた。

右手を、ゆっくりパジャマの中から抜く。

指先は、透明な液体にまみれていた。

意外に粘度の少ないそれは、常夜灯の色を受けて妖しく輝く。

「……」

私は、それをぼんやりと見つめる。

透明な雫は、優しい暖色の光を含んで、何か素敵なものに見えた。

無意識に、私はその手を口元に持っていったのだろう。

気がついたとき、私は、そろえた指先を舌で舐めていた。

「……!!」

予想もしていなかった感触に、私は我に返った。

濡れやすい体質だからなのか、多量に分泌される体液は薄く、

味はほとんどしなかったが、匂いは十分に感じ取れた。

フェロモンをたっぷり含んだ、牝の匂い。

同性のそれは、自分のものとはいえ、それほど嬉しくない。

「……男の子の……新治君の精子だったら、違うのかな」

思わずつぶやいて、自分の口走った言葉の意味に気がつき、

私は、背筋を電流が走ったようにぞくぞくと身を震わせた。

 

「……新治君の……精子……?」

薄暗闇の中で、自問する。

もう一度声にすると、「ぞくぞく」はさらに激しくなった。

「だめ……そんなの、私……」

ソンナノ舐メタラ、キット、理性ヲ、保テナイ。

目をぎゅっとつぶる。

逆効果だった。

先ほど自分の指先にからんでいた愛液が脳裏に浮かび、

それは、もっとどろどろとした白濁の粘液に変わった。

 

男の人の、精子が、そういう物体だということは知っている。

それが、おち×ちんから出るものだということの知識はある。

でも、実物を見たことなんか、もちろん、ない。

それが即座にこんなにリアルに想像できてしまうとは。

それを──舐める?

さっき、自分の蜜を舐めたように?

背筋の電流は、稲妻のように強くなった。

 

唇と舌になすりつけられる。

新治君の精液。

見たことも、触ったことも、嗅いだことも、もちろん舐めたこともない粘液は、

現実以上の現実感をもって私の頭の中に押し寄せた。

苦くて、生臭くて、男臭くて、――私を狂わしいほどに魅了する。

「だ、だめっ……新治…くぅんっ!!」

甘くとろける想像に逆らえるはずもなく、

私はショーツの中に手を突っ込み、再びオナニーを始めてしまった。

 

「……」

30分後、脱衣場にある洗面台で脱いだショーツを広げながら、

私は、ちょっとだけへこんでいた。

あれから、3回、立て続けにしてしまった。

あんなことを想像してオナニーをするなんて。

こんなこと知られたら、……ケーベツされるかな、あの男(ひと)に。

「新治君……」

心の中で、小さくつぶやく。

現実には、私と新治君は、手をつないだこともない。

晩生(おくて)の女の子と男の子との、たわいない会話。

ジュース一本分の時間でも、昔話。

それだけが、新治君とのつながりの全て。

なのに、私の心の中では、あの男(ひと)は、もう離れられない存在になっていた。

 

でも。

私は。

 

もっと、新治君とつながりたい。

 

男と女。

牡と牝として。

なぜなら、それが二人の人間の中で一番強いつながりだから。

母さんは、新しい夫とのつながりを保つために、私を捨てた。

男女の絆は、親子のそれを上回る。

あるいは、その逆もあるのかもしれないけど

それは、私にとって信じられるものではなかった。

一番強イノハ、牡ト牝ノ、ツナガリ。

それが私が得た結論で、今、それを求める対象が目の前に現れてしまったのだ。

 

新治君。

彼に、私が自慰の中で想像していたことや、

もっともっといやらしくてひどいことを、してほしい。

それで、彼の存在がもっと近くになるのなら

新治君は。

きっと、ううん、絶対に童貞だ。

他の女の子を、まだ知らない。

それは、私が男の人をまだ知らないのと同じくらいに、確実。

私以外の女の子とは、親しくしゃべったこともない。

それも、確実。

毎日話ができる女の子は、私が最初。

そして、最後。

そう。

私が、新治君を独占する。

彼の「最初」と「最後」と、その間の全部を独占すればいい。

新治君に必要な「牝」を、全部私が満たせば、

私との絆(きずな)は、どんなものよりも強くなる。

母さんのように、私を捨てることもない。

だって。

新治君は、男の子。私は、女の子。

牡と、牝。

新治君には牝が必要で、私はそれを与えることが出来る。

私が、一番与えられる。

ちがう。

私だけが、与えられるんだ。

ナンバーワンで、オンリーワンに。

なる。

ならなきゃ。

なぜなら、あの男(ひと)の「唯一」になれれば、

──絶対に、新治君は、私を捨てられなくなるから。

 

「……」

ぼんやりとした考えがまとまったとき、

私の手の中で、ショーツもきれいに洗い終わっていた。

4回も自慰をしたせいでショーツはぐしょぐしょだったけど、

一家の家事を全て背負わされている私の手にかかれば、

一枚きりの下洗いなんて、何ほどのものではない。

かごの中にある洗濯物の中に入れる。

あとは、全自動洗濯機にかけるだけだけど、それは明日の朝にしよう。

手を洗いなおす。

ふと、顔を上げて、鏡を見た。

髪の毛が、だいぶ伸びていた。

 

セミロングに揃えていた黒髪は、すばらしい勢いで伸びている気がした。

とくにこの半月──新治君と再会してから。

女性ホルモンが活発化したのだろうか。

毎晩狂ったようにしている自慰行為が、それを助長しているのかも知れない。

私は、恥ずかしくなって顔を伏せた。

「――夜中に何やってるのよ、オネエチャン」

冷たい声は、背後からした。

振り返ると、<妹>がいた。

声と同じくらい冷たい瞳で私を見つめながら。

「ちょっとね、洗濯物の準備を……。目、覚めちゃったから、トイレ行くついでに」

「ふうん」

彩は、私の頭の上からつま先までゆっくりと視線を這わせるようにして眺めた。

誰か他に人がいないときの、彼女のいつもの態度だ。

「ふうん。……あ、私、お台所に飲み物取りに来たんだ。

ちょうどいいわ、オネエチャン。取ってきて」

「……わかったわ」

冷蔵庫に彩ご指定のミネラルウォーターの壜が冷えているはずだ。

一度切らしてしまったことがあって、夜中に大きな声でののしられた。

以来、何はなくとも、それだけは冷蔵庫に入れている。

きびすを返して台所に行きかけたとき、背後で

<妹>がそのときと同じくらいの金切り声を上げた。

「あっ! また私の洗濯物と混ぜてるわね、オネエチャン!!」

彩は洗濯籠を持ち上げて床の上に中身をぶちまけた。

「あっ!」

私は、さっき洗ったショーツが入っていたことを思い出して固まった。

彩は、憤怒の表情で私を睨みつけ、怒鳴り散らす。

「私の下着、あなたやあなたのママのものと混ぜないでって、言ってるでしょ!

汚いじゃない!! 牝臭いのよ、あんたたちはっ!!」

床に散らばったシャツや下着を蹴り飛ばしながら、彩はわめいた。

この娘は、私と同じくらい、私の母さんも嫌っている。

 

「……ごめんなさい」

謝って、床の洗濯物を拾う。

誰が誰の物かは、照明を半分にしている暗がりでも分かる。

洗濯するのもたたむのも、私だから。

「……このっ!!」

怒りが収まらないのだろう、彩は私の肩を蹴飛ばした。

小柄な、スポーツは得意ではない女の子の蹴りだ。

痛くない、といえば嘘になるけど、我慢できないものではない。

私は、ぐらっとしたけど、黙って下着を拾い続けた。

蹴られた痛みより、メス臭い、と言われたことのほうが私を動揺させている。

彩が、私たち母子をののしるときに使うおきまりのセリフだ。

父親の再婚相手と、その娘に抱く印象は、「女の武器で父親を篭絡した淫婦」なのだろう。

何百回も聞いたことばだけど、あれだけ激しい自慰の直後に浴びせられると、返す言葉もない。

私は、真っ赤になった顔を見せまいと、必死で顔を伏せた。

「……このっ……!!」

彩は、肩透かしをくらったように、ことばにつまった。

抑えきれない怒りが、テレビで絶賛されている国民的美少女の中で渦巻く。

それは、別の方向に噴出さなければ収まりが付かなかった。

「何よ、その髪っ! 私の真似!? 切りなさいよ、うっとおしいっ!!」

私の髪に目を付けた彩は、ひとしきりそれをののしってから、

飲み物のことも忘れて二階に上がっていった。

「……」

私は、下着を拾い集め、彩のものとそれ以外に分けた。

分別が終わって、立ち上がったとき、はらり、と髪が肩にかかった。

「……」

私は、鏡の中の自分を見つめ続けた。

 

「……お姉ちゃん、髪、伸びたんじゃない? 切りにいってきたらどう?」

めずらしく朝食をいっしょにする母さんが、席に着くなり私に声をかけた。

義父さんは、東京のコンサート・ツアーでホテルに泊まっている。

母さんは、昼間、そのサポートに毎日そこに通い、半々の割合で泊まってくる。

ツアー中のいつものパターンだ。

でも、朝、早々にそんなことを出したのは……。

私は彩のほうを盗み見た。

<妹>は、そ知らぬ顔でミルクのカップに口を付けている。

間違いない。

朝のうちに、あるいは昨晩あれから叩き起こして、母さんに「命令」したのだ。

父親に溺愛されている実娘は、義母よりも立場がずっと強い。

そして、母さんは、義理の娘の言葉に従って私に命令することに躊躇をしてくれない。

「……」

いつもならすぐに承諾の返事をするのだが、私はなぜか押し黙った。

うつむいてテーブルの上を見つめる視界の端に彩の姿が映る。

美しいロングヘアの彩が。

<後妻の連れ子>を姉妹として認めなかった彩は、同時に私のロングヘアも認めなかった。

小さな頃から伸ばし続けた黒髪を天才少女は何よりも誇りに思っていて、

同じようにロングを好んでいた私のそれを憎しみの視線で見つめた。

「家のお手伝いをしてくれるのに、それは邪魔よね」

彩の意を汲んだ母さんが、そう言ったとき、

ピアノと並ぶ私の自慢だった黒髪は、ばさりと切られた。

泣いて抵抗したので、ショートまではいかずセミロングにとどまったけど、

小学生時代の思い出のつまった髪は、美容院のゴミとして捨てられた。

以来、私は、それ以上髪を伸ばせなかった。

 

でも。

今は。

 

「――ううん。これから、ちょっと伸ばしてみるわ。小学校のときみたいに」

その返事に愕然としたになった表情の母さんと彩を、私は見ていなかった。

私の瞳には、新治君が映っていた。

長い長い黒髪だった小学生の私を見つめる、新治君が。

私の黒髪は、クラスメイトのちょっとした自慢だった。

あの時、私は気がついていなかったけど、他の子と同じように、

きっと新治君も私のロングヘアをまぶしく見つめていたのだろう。

だったら、今だって。

きっと、新治君は、ロングの私を見たいだろう。

それなら、伸ばす。見せてあげる。

あの頃、遠巻きに見ていた「石岡綾子」を、

そのままそっくり新治君に見せてあげる。

ううん。

あれから育った、小学生以上の「石岡綾子」を、

新治君に見せてあげる。

新治君にだけ、全部をあげる。

黒髪は、その第一歩だ。

 

頬に、痛いくらいの視線を感じた。

彩が、私を睨んでる。

私は目を閉じてそれを無視した。

頭の中は、小学生のとき、見ているだけだった「石岡綾子」の

「何もかも」を捧げられて、喜ぶ新治君の姿だけが浮かんでいたから。

 

(今日、新治君と、キスしよう)

 

煮えたぎるような憎悪の視線を浴びても、

私は、そう決意しただけで、天国にいるようにうっとりと微笑むことができた。

 

 

 

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