<七篠家五代傍流・燕>

 

月が明るい夜であった。

そろそろ初夏に入ろうとする季節でも、日が沈めば、まだ涼しい。

「……ま、それでも氷の都から帰ってきた体にはちと辛いが──」

五郎は、渋茶をすすりながら苦笑した。

──当主となってまだ数ヶ月の身だが、誰もそうとは思わないだろう。

荒れ果てた京を独力で復興させ続ける名門・七篠(ななしの)家の総帥にふさわしい貫禄だった。

たとえ短命の呪いに身を蝕まれ二年足らずで死すべき血が流れている一族だとしても、五郎の成熟ぶりは特筆に価する。

先代当主・四天丸は、剣士としての実力だけでなく長者として世に知られ、信頼されていたが、

新当主の五郎も、短期間で同じような落ち着きと老成を身にまとっている。

それは交神の儀による精神的な成長だけでなく、ここ数ヶ月の激動を経験したためでもあった。

「しかし、黄川人が朱点童子だったとは、な──」

──七篠一族の悲願である、朱点童子討伐を為し遂げたのもつかの間、

真の朱点童子・黄川人と、新たな、そして強力な鬼たちの拠点の出現に、人間界はまさに激震した。

桁違いの実力を持つ新たな鬼たちは、鬼朱点を斃した五郎たちでさえも、容易に撃退できない存在であった。

それでも、気力体力ともにまさに全盛期を迎えつつある新当主を擁した七篠一族は、

すばやく反撃の態勢を整え、鬼の棲家へ出撃していった。

──今月は、忘我流水道へ向かい、はじめて敦賀ノ真名姫を倒したばかりである。

人間に深い恨みを持つ人魚の女神を天に返すには、業の断ち切りが足りなかったが、

その先の氷の洞窟にまで進むことができたのは、初めての討伐にしては上出来であったろう。

氷洞からの帰還後、暑さが倍増して感じられるという五郎のぼやきは、ご愛嬌である。

「──当主様」

戸口のほうで、声がした。

「イツ花か。どうした?」

五郎は、七篠家に代々仕える巫女に声をかけた。

「はい。──燕様のご成人のことでご相談が……」

「──ほう。うっかりしていた。あいつもとっくに年頃だったな。交神の儀をさせねばなるまい」

五郎は頭をかいた。

燕──先代当主・四天丸の娘である女剣士は、彼と三月違いの生まれだから、もう交神の儀ができる年頃になっていた。

しかし、大江山討伐のあとの混乱の中で、一族は連戦を強いられたため、ここ数ヶ月そうしたことに頭が回らないでいた。

そもそも、燕が成人していたことも、今思い出したようなものだ。

「燕にも随分と苦労をかけたからな──」

天才児・五郎には及ばないとはいえ、先代直伝の奥義を受け継いだ剣士の力は討伐隊に欠かせぬものであったし、

粘り強く、また冷静な性格の彼女は、当主にとって心強い副将格であった。

悲願達成のため、強力な子孫を残すという意味でも、長年の労苦に報いるためにも、

次月に予定している久々の交神の儀は、燕に行わせるべきであった。

「ふむ。──しかし、どの神と子をなすべきか?」

五郎は、七篠家と縁のある男神の名を思い浮かべようと眉根を寄せた。

「ああ見えて燕は晩生だ。力もさることながら、できれば心の優しい男神に添わせてやりたい」

「──そのことで、折り入ってご相談がございます」

眼鏡をかけた巫女は、真剣な表情で自分が仕える当主を見つめた。普段のおっちょこちょいさとは対照的だ。

「何だ?」

「燕様は、とある<水>の男神様にご執心のご様子。交神の儀の折は、よろしくご配慮くださいませ」

「──ほう」

意外そうな表情になった五郎は、やがてにやりと笑って頷いた。

「そういえば、燕が解放した男神がいたな。──あいつもなかなかどうして面食いだ」

「では、お願いいたします」

「わかった。──下がる前ですまんが、六兵衛を呼んできてくれぬか」

「はい。六兵衛様ですね」

イツ花が、二ヶ月になったばかりの五郎の息子を連れてきた後に下がる。

七篠の当主は、先日初陣を果たしたばかりの長男に咳払いをしながら問いかけた。

「ああ、なんだ。その──父者は、これからお前の母者に会って話をせねばならんことができたが、お前も付いてくるか?」

「──行く!!」

幼い槍使いは、間髪いれずに答えた。

「うむ。では、付いてくるがいい」

照れ笑いを仏頂面でかくすことに成功した五郎は、屋敷を出てしばらく歩き、小川のせせらぎが聞こえる場所まで足を伸ばした。

「──あら、五郎に、六兵衛」

いつのまにか、小川の中に那由多ノお雫が立っていた。

呼び出しもしないのに女神が現れたことを、五郎も六兵衛も不思議とは思わない。

彼女は、いつでも二人を見守っているのだ。

 

「──ふうん。燕ちゃんも、いよいよ交神の儀なんだ」

ひとしきり六兵衛を遊ばせた後、眠りについたわが子の髪をなでながら、お雫が笑った。

「うむ」

「その顔。──まるで妹が嫁ぐときのお兄さんみたいにそわそわして」

「似たようなものだ。七篠家は、一族全員が家族だからな。中でも俺と燕とは年も近いし、気も合った」

「まあ、お兄さんとしては、妹さんの交神の儀が気になるわけね。──で、私に何を聞きたいの?」

「……万屋玄亀とは、どんな神なんだ? ──同じ<水>の神ならよく知っているだろう?」

五郎は、先日の出撃で亀甲鎧を身に付けた燕が解放した神の名をあげた。

「んー。まあ、いい子よ。少なくとも、見た目ほど軽くはないことは確かだわ。

それどころか亀の神様だけあって、ものすごく辛抱強いし、堅実」

お雫は、言葉を選びながら答えた。

沼坊主に閉じ込められていた男神は、良家の御曹司、といった雰囲気を持つさわやかな青年の姿を持っていた。

軽い言葉遣いのために誤解されることも多いが、別に心配することはない、というのが女神の感想だった。

ほっとしたような表情になった五郎は、すぐにまた真剣な顔に戻った。

「で、だな。その、聞きにくいことなんだが……」

「何?」

「うむ。その……あれは、大亀の化身なんだろ?」

「そうだけど…それが何か?」

「……その、アレも大きいのか? <亀の頭>と言うし……」

一瞬、質問の意味がわからなかったお雫は、数瞬後、おもいっきり五郎の頭を叩いていた。

「──痛え!」

「馬鹿っ!! 何を聞くかと思えばっ!!」

「いてて、殴るなって。──冗談で聞いてるんじゃない──あいたっ!

……燕は小柄だし、意外と華奢だから、あんな大亀相手じゃ辛いかと思って──痛いっ!」

「私が知ってるわけないでしょうがっ!!」

ますます速度を上げてぽかぽかと殴りつける女神に、五郎は頭を抱えてうずくまった。

そのとき眠っている六兵衛が、くしゃみをして起きそうな雰囲気にならなければ、

五郎は、七篠の開闢以来始めて「女神に撲殺された当主」となっていたかもしれない。

あわてて物音を消した父と母の痴話喧嘩を見ることなく、六兵衛はまた深い眠りに落ちた。

「……<くらら>まで使うか、普通?」

「黙って──。まだ術のかかりが浅いから……うん、完全に眠ったわ」

ほっとしたように一息ついた女神が、五郎のほうを見る。

処刑執行再開かと身を硬くしたが、お雫は気が抜けたようだった。川べりに腰を下ろして、大きく伸びをする。

「まあ、君が相変わらずお馬鹿なのは、よくわかったわ。──当主になっても、父親になっても」

「むう」

「と言うよりも、昔より馬鹿になってない、君?」

「むむう。──昔、俺に<心>についていろいろ教えてくれた女神がいて、な」

「ふうん。──きっといい女なんでしょうね、その人」

「俺が馬鹿になったとしたら、そいつのせいだ。──たしかに最近やたらと笑うようになった、と言われる」

「お馬鹿さん。今のほうが、昔のぶんむくれ顔よりずっといいわよ。

……それと、お馬鹿ついでに言っておくけど──燕ちゃんが懸想している相手、玄亀君じゃないわよ」

「──何!?」

女神と違い、<水>の男神は数少ない。好戦的な男には<火>の神が多いのだ。

その中にあって、実力も姿形も、玄亀は相応の相手に思えたし、燕自身が解放したという縁もある。

五郎が、燕のご執心の相手を玄亀だと思い込んだのも無理はなかった。

「じゃ、誰だ……? ──鹿島中竜、ちがうな。淀ノ蛇麻呂──いいや、燕は長虫嫌いだ。

雷電五郎──はまだ解放されていない。嘗祭り露彦──ナメクジも苦手だったな。……まさか、氷ノ皇子!?」

「あの御方も、まだ解放されていないでしょうに。だいたい貴方達、会ったこともないんじゃない?」

たしかに忘我流水道の半ばで引き返した討伐隊は、氷ノ皇子と謁見──戦うことすらなかった。

「じゃあ、燕は、誰に想いを掛けているんだ?」

「もう一柱、燕ちゃんが解放した<水>の神様がいるじゃない、──とびきり心優しい、いい男神様よ」

「……!?」

その神の事を思い出して、五郎の顎がかくん、と開きっぱなしになった。

 

「……ま、ま、待て。それは、相翼院の、その──<あれ>か?」

「口が悪いわね。あの神様と呼びなさい。だいたいさっきから、神の名前を呼び捨てなんて不遜よ」

「そ、そんなことはどうでもいい。──あれ、いや、あの神なのか?」

「ええ、そうよ。──燕ちゃんは、物事の表面にとらわれない良い娘よ。あの方の良さを、よくわかっているわ」

今の天界での序列は下とはいえ、自分よりはるかに古くから祭られてきたその神のことを、お雫は粗略に扱わなかった。

──五郎も知っている。あの神は、この国に小川が生まれ、沼ができたときから居た神だった。

 

──その神は、人々が田を作ったとき、最初に喜び、最初に祝福を与えた神だ。

稲に害を為すものを平らげ、雨の中で歌を歌って人々を勇気付けた神だ。

力は弱いが、心優しく、常に人の味方であった神だ。

──彼が、鬼にとらわれたとき、田と言う田は悲しみにくれたと言う。

彼とその眷属の歌を聞けなくなった、と知って。

──そして七篠の女剣士が、その神が閉じ込められた鬼を切り捨てて解放したとき、

田と雨は、彼の神の眷属たちとともに、いっせいに歌いだした。

今夜のように。

 

「──来た」

よく手入れされた田畑に四方を囲まれた東屋の中で、花嫁──燕はびくりと肩を震わせた。

覚悟はできているし、何よりも待ち望んだ瞬間であったが、不安におののくは、処女の習性だった。

ぱらぱらという傘に雨が当たる音が聞こえる。

その音さえも優しいのは、傘が、大きな里芋の葉を手折って作ったものだからだ。

「──やあ。……ほんとうに、おいらでいいのかい?」

戸口を開ける前に、そんなことを言う男神に、燕は躊躇なく答えた。

「お待ちして──いいえ、お慕い申し上げておりました。

どうぞお入りください──白浪河太郎様……」

その神──燕が相翼院で解放した河童の神は、眷属の蛙たちの唱和する声に押されるようにして、東屋に入ってきた。

 

燕は、普通の人間の歳に換算すれば二十歳をとうに過ぎた娘だ。

だが、袴姿もりりしい女剣士は、一族の中でも潔癖で晩生なことで知られている。

一生を剣と七篠家の悲願達成に捧げて悔いぬ、という生き方をしていた燕が、

それを改めたのは、相翼院でこの神、白浪河太郎を解放してからだ。

以来、燕は、夜に物思いにふけることが多くなった。

その姿を見たイツ花に、ほろりと心情を漏らしたこともある。

それが五郎の耳にも入って、今日の交神の儀の運びとなったのだ。

──自分が、なぜ河太郎を慕うようになったのか、燕はわからないでいた。

子供の頃から蛙は苦手ではなかったが、年頃の娘として、特別にそうしたものに愛着を持っていたわけではない。

白浪の術は得意だが、最も良く使うというわけでもない。

(たぶん──)

たぶん、この方の優しい目と手を見たからだ、と燕は思っている。

燕に斬られ、解放されるときに、河太郎は、彼女に礼を言った。

その柔らかな眼差しと、からだの割りに小ぶりな手が、彼女に強い印象を与えたようだった。

男女のことは、わからない。

あの時から、七篠家きっての堅物娘は、恋に焦がれる乙女となった。

その想いが、今叶う。

 

「ひゃ……」

河太郎の愛撫は、想像したとおりに優しく、そして想像以上に大胆だった。

河太郎の長く器用な舌は、燕の隅々までを舐め上げ、処女の体から快楽を呼び覚ましていた。

唇や乳首の先端だけでなく、秘所や、後ろのほうまでも丁寧に愛撫する舌に、

燕は気が遠くなるほどの羞恥と、快感と、言い表せぬほどの感情に心臓が破裂するのではないかと畏れた。

しかし、大人としての準備を急速に整え始めた女体は、それに対応して狂おしく乱れる以上の害悪をもたらさなかった。

それは、河太郎が、大きな口を開けて、手足の一本一本を根元から含んでくまなく愛撫したり、

下半身を丸々のみこんで、あらゆる性感帯を舌と粘膜で包み込んだりすると、

燕の身体は、すっかり子供を作る機能を覚醒させた。

 

「うん。──行くよ」

「は、はい……」

「こわいかい?」

「はい。──い、いいえ!」

素直に返事をしてから、あわてて否定する。

ぶんぶんと頭を振ると、立てば腰までもある黒髪が、汗ばんだ頬や額にからんだ。

「痛かったら、これを噛みしめなぁ。少しはまぎれるよぉ」

河太郎は首からぶら下げた緑の棒を燕に差し出した。

──瑞々しい胡瓜。

優しい心遣いと、何かが微妙にずれている配慮──河太郎らしい贈り物だ。

だが、処女にはそれを笑う余裕もなく、燕は神妙にそれを口に含んだ。

「──んんっ!」

柔らかく、固い、不思議な感触。

破瓜の痛み。

──がりり。

燕が、女になり、また母親になったとき、胡瓜は、半ば以上噛み砕かれて燕の胃の府に収まっていた。

 

「……顔はおいらに似ないといいねェ」

河太郎が、名残惜しげに燕の背や肩を撫で回しながら言った。

「いいえ、貴方様に似た良い子を産みます」

「女の子だったら、かわいそうだよぉ」

「そんなこと、ありません! きっと、可愛い娘になります」

明るい月に下で、優しい父親と、りりしい母親が、最初で最後の小さな言い争いをしていた。

真剣な、楽しいひと時。

やがて、河太郎は立ち上がった。

別れの時間が来ていた。

顔を伏せた妻は、まだ夫の手を握っていた。

そのうつむく姿に、問いかける。

「──もう、名前は決めてあるのかい?」

「はい。楓──あなたの優しいこの手を忘れぬように、その名前をつけようと思っています」

 

蛙手(かえるで)──楓(かえで)。

七篠家第六代当主・六兵衛に仕え、その子、七代当主・七郎太に剣の奥義を伝授した女剣士である。

母たる剣士が、父親似と主張し続けたその姿は、しかし、子や孫の世代の同族からも慕われた愛くるしいものだったと伝わる。

 

 

 

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