<マダムPの憂鬱>

 

ワードナは久々の自由を満喫していた。

魔女は買い物がある、と朝起きてすぐに出かけて行った。──素晴らしい一日!

こんな日は、どこかに出かけるよりも、小部屋に引きこもって自分の研究に没頭するに限る。

大魔術師は研究こそがもっともふさわしい仕事。

一日中、こうるさい妻のおしゃべりにつきあうなど、とんでもない苦行だ。

幸い、この階層は居心地のいい小部屋が多く、昨晩泊まったこの場所も十分に簡易研究室となる。

魔道書を読もうとして、ワードナはふとテーブルの上にある本に目を留めた。

自分のものではない。──魔女のものだ。

なんとなく興味を引かれて手にとってみる。

『月刊魔女之友』

──数多くある魔女向けの雑誌の中でも、最古のものだ。

創刊号は、戦前……神代戦争以前。一説には、編集長はこの世で最初に結婚した魔女であるとも言う。

創刊以来、頑迷なまでに既婚魔女向けの記事だけを載せ続ける保守的な雑誌だが、

競争が激しい魔道出版業界にあって、

『ウイッチ・ティーン』『マジカルプリンセス』『クィーン・オブ・サバト』などの大手が

この地味な雑誌に対してだけは決して営業戦争を仕掛けないのは、単に読者層の違いではない。

──<アレクサンドリア大図書館>が謎の消失を遂げたのは、

大手にそそのかされた館長がこの雑誌の定期購読の中止を決定した翌日のことだったし、

天の雷によって破壊された<バビロンの塔>の最上階には

「魔女之友」に対して悪質な営業妨害を仕掛け続けた出版社があった。

噂では、魔女の中で実力者を上から百人リストアップすると、その八割がこの雑誌の愛読者だとも言う。

 

──中身は、どうということはない。

・今晩のおかず 〜春の迷宮食材を使ったお手軽料理〜

・娘の非行防止について 2歳児からの魔女教育

・妖虫エキスで簡単免疫力アップ!

・夫を見張るオススメ使い魔百選

・セックスレスからの脱出 ―300年目の奇跡

 

ぱらぱらとめくったページが「精飲ノスゝメ―精液の滋養分で夫の体調をチェック」であったので、

ワードナはあわてて別のページをめくった。

 

──しおりが挟んである。

<マダムPの相談室>

連載コーナーであるらしい。

それほど分厚くない雑誌で六頁も紙面を割いているのだから人気なのだろう。

読者からの質問を受け付け、<マダムP>なる人物が回答やアドバイスを与えるものだが、

斜め読みをしていたワードナは、目を光らせた。

質問のほうは、愚にもつかぬ内容のものが多いが、回答のほうは理路整然として的確だ。

二つほど魔道に関する質問があったが、ワードナがちょっと居住まいを正して読み直すほどのものだった。

(これほどの知識を持った女魔術師……何者だ?)

ワードナとて、この世の魔術師・魔女の全てを知るわけではない。

現にソーンのことを知ってはいたが、その<本体>である最強の魔女のことは全く知らなかった。

だが、ある程度の実力者ならば、たいていは名を聞いたことがある。

<相談室>を読み終え、ぱらぱらと頁をめくったワードナの手が最後のほうで止まった。

今月の執筆者紹介。

魔法の技巧を惜しげもなく使った肖像画は、精緻極まりないものだった。

もちろんわざと簡単な略画や、使い魔の絵を代用している執筆者もいたが、<マダムP>は本人の肖像画を使っている。

年のころはわからない──魔女ならば当たり前だ。

だが、黒の直い髪と儚げな憂い顔は、おそろしく美しかった。

視覚的な情報を得て、ワードナは再び<マダムP>に関して記憶を探った。

これほどの実力と美貌を持った魔女、どこかでワードナの情報網に触れている確率は高い。

 

腕組みをして考え始めたとき、魔女が帰ってきた。

「あら、<魔女之友>……」

夫の前にある本を見て、妻はちょっと目を丸くした。

彼女の配偶者がこの手のものに興味を示すのは珍しい。

──良い傾向だ。夫婦間のつながりは男女の差異を良く知ることから始まる。共通の話題は多いほうが良い。

魔女はにっこりと笑い、ワードナは動揺して咳払いをした。

 

「何をご覧になられているのですか?」

興味津々の口調で魔女は開いたページを覗き込んだ。

「いや、この<マダムP>とやらがな……」

つい返事をしてしまってから、しまった、と臍をかんだ。

彼の妻は、夫が自分以外の女に関心を寄せる事をまったく好まない。

ましてや、魔女には及ばないとはいえ、これほどの美女ならば。

悪の大魔術師は、局地的な雷が起こるのを予想した。着雷予想点は自分の頭の上だ。

──しかし意外なことに、魔女は大きく頷いた。

だけでなく、同好の士よ、とばかりに微笑みかけた。

「ああ、ポレ卿の奥方ですわね。あのコーナーは殿方が読んでも面白いでしょう?

私も大ファンですの。このあいだ、お手紙を送ったくらい!」

ワードナの顎が、かくん、と落ちた。

 

「……ポ、ポ、ポレというと、あのポレか?──これが、あやつの奥方!?」

大魔術師ポレ。知らぬ相手ではない。

魔力はわしの足元にも及ばぬくせに大魔術師を名乗るとは片腹痛いが、まあそれなりの実力者ではある。

しかし、あやつはその魔術の腕よりも、稀代の恐妻家としてのほうが有名だ。

あの男の裕福な奥方は、華麗な衣装をまとい、鞭を振るう若くて驕慢な美女ということは、

ル・ケブレスの迷宮を知るものならば、誰もが承知の事実だ。

──ポレが、彼女に虐待され続けていることも。

ワードナは、思わず、信じられない言葉を吐いた自分の配偶者の口元を見た。

唖然とした表情で<魔女之友>と魔女の顔を交互に見比べるワードナの心のうちを、魔女は一瞬で悟ったらしい。

驚異的な夫への観察能力だ。そんなものは無いほうがいいのに。

「──殿方はものを見る眼が曇っています。あの方は、もともとそういう方なのです」

どういう方だ、と反射的に言いそうになってワードナは言葉を飲み込んだ。

魔女はちょっとため息をついて、ワードナの横に座った。

「少し、お話ししましょうか。ポレ卿の奥方のこと──」

 

 

 

鞭が鳴った。

痩せた──と言うよりも骸骨に等しい肩口に容赦なく打ち下ろされる。

「間抜けめ、また冒険者に出し抜かれたのかい?」

痛みよりも、罵倒の声の鋭さに、大魔術師はよろめいた。

床に這いつくばって妻からの第二撃を受ける。

それだけでは済まず、続けざまに第三撃、第四撃もきた。

「何回倒されれば気が済むんだい、このど阿呆め!」

<リッチ>を思わす骸骨姿の大魔術師は鞭を受けては惨めに身体を震わせた。

ひとしきり懲罰を与えてから、女──ポレの奥方は豪奢なドレスに包まれた足を片方上げた。

へたり込んでうずくまっているポレの肩にその足を乗せ、思い切り踏みにじる。

生ける骸骨は苦痛の悲鳴を上げた。

「このどうしようもない、無能者が!」

針のように細いヒールに体重を乗せて踏みにじると、ポレの薄いローブに穴が開いた。

血ではない、なにか奇怪な液体がにじみ出てくるのを見て、奥方は眉をひそめて足を離した。

真紅の衣装が華麗に翻る。

「ふん、汚らわしい。──なによ、その顔?」

ポレは震える肩越しに、上目遣いで妻を見ていた。

骸骨の落ち窪んだ眼窩の光を見て、奥方は嘲笑した。

「鞭打たれて、足蹴にされて、欲情したのかい。──このマゾ男!」

図星を指されて、ポレはびくっと身を震わせた。

この痩せ衰えた大魔術師がサディストの奥方から離れられない理由はただ一つ。

彼が重度の被虐性を持っているからだった。

侮蔑以外のどんな色も見せない瞳で、夫を見下ろしながら、奥方は吐き捨てるように言った。

「さあ、いつものように自分でしてごらん、この薄汚い骸骨が」

許可の言葉に、ポレの目(と言っても骨のうろだが)が輝いた。

 

ポレは、自分のローブの下腹部をまさぐった。

欲情のあまり、むき出しの歯がかたかたと卑しげに震える。

奥方は心底嫌そうな顔をした。

骸骨は、そこだけはひどく生々しい男の器官を取り出した。

上目遣いで自分の妻を見つめながら、男根を激しくこすり出す。

「あっはは、そこだけは分不相応に立派だわねぇ、自慰にしか使わないくせに」

奥方は朱絹のドレスに包まれた右腕を振るった。

鞭が繊細極まりないしなりを見せて、ポレの男根を叩いた。

「ギャッ!」

骸骨は、はじめて声を上げた。しかし自慰の手は止まることなく、かえってその激しさを増した。

「あははは、この馬鹿!」

奥方は頭巾に差し込んだ、紫の長い飾り布をひらひらと宙に舞わせながら鞭を躍らせた。

ポレはそのたびに耳障りな悲鳴を上げた。

やがて──。

うめき声とともに奇怪な骸骨は射精を始めた。

干からびた体のどこに蓄えていたのか、若く健康な男の精液のように、それは濃く、勢いもあった。

射精の瞬間、ポレは、それを自分の妻の足元に放った。

あわよくば、奥方の真っ赤な靴にかけようとして。

だが、彼の妻はそんなことはお見通しだった。軽やかにステップを踏んで夫の精液を避ける。

「私の靴に汚い汁をひっかけようとしたね──この身の程知らず」

罵倒の言葉とともに、鞭の一撃がポレの顔を容赦なくはたいた。

奥方は、足を上げた。埃だらけの床にむなしく飛び散った夫の精液を踏みにじる。

「あはは、ゴミを踏んづけるよりも気持ち悪いよ!」

「──うううっ!」

ポレはうめき声を上げて、心臓──のあるべき場所を押さえた。

苦痛と屈辱に耐えかねた魔法の器官が異常を覚えたのだ。

骸骨は泡を吹いて倒れこみ、動かなくなった。

その後頭部を、奥方は冷徹に踏みにじる。頚骨が砕ける音が石床に木霊した。

 

──検査薬の反応は全て上々だった。

経年劣化した幾つかの「骨」の取替えと、循環液の交換も済んでいる。この辺は手馴れたものだ。

──だが、いつになっても慣れない。

万が一の失敗を恐れ、おびえるのは、最初の一回目から変わらない。

全ての処置を終えて、黒髪の美女は寝台の上を覗き込んだ。

夫は、安らかな寝息を立てている。処置は成功したようだ。

ほっとした奥方は、思わずかがみこんでポレの唇にキスをした。

干からびた唇と、半ば露出した歯の硬い感触が彼女の心を暖める。

思わず口付けを求めた自分のはしたなさに気が付き、黒髪の美女は少女のように赤面した。

儚げな美貌が、羞恥の色に染まる。

まるで処女のような反応だったが、恋をしている女は、皆そんなものなのだ。

そして、彼女──ポレの奥方は、いつでも夫に恋をしている。

ただし処女と違い、成熟した既婚女性である奥方は、キスより先の行為にも習熟していた。

寝台に横たわる夫の表情を伺い、目覚める兆候がないのを見て取ると、寝台の下手のほうへ移動する。

おずおずと、しかし、震えることなく、白い繊手が伸びて、ポレのローブの裾を優しく捲り上げた。

夫の愛しい器官は、力なくうなだれていた。

奥方はそれを宝物を扱うように──実際夫は彼女の宝物だ──両手で包み込んだ。

白磁のような顔を近づけ、頬ずりする。

そぉっと息を吹きかけ、優しく両手でこすり始めると、持ち主の意思とは別個の生き物のごとく、それは目覚め始めた。

みるみる硬度を増してそそり立つ男根を、奥方は潤んだ瞳でうっとりと見つめた。

十分に見つめ、なじみの体臭を嗅いだの後、奥方は唇を近づけた。

先刻の華麗な装いとは違い、紅の一はけも差さない薄桃色の唇は、しかし化粧したそれよりもはるかに魅力的だった。

夫の先端を咥えた。

楚々とした美貌に似合わず、奥方の奉仕は情熱的で執拗だった。

夫と一番多く閨をともにした女は自分だ。だから、どんな女よりも夫に快楽を与えられるのは自分だ。

物事に執着しそうにない美女が、全霊をかけてみせる執心は、美しくも淫らだった。

やがて、──ポレはうめき声を上げて目を覚ました。

その瞬間、骸骨は自分の妻の口の中に大量の精液を射精した。

奥方はつつましげな挙措で、それを全て飲み込んだ。

 

「何をしている……!?」

ポレはすばやく起き上がると、奥方を突き飛ばした。

「あっ」

よろめいた奥方は床に崩れ落ちたが、怪我はなかった。

<裕福な奥方の寝室>は毛足の長い絨毯が敷き詰められ、グラスを落としても割れることがない。

「……なぜまた蘇らせた……。なぜ、あの快楽の中で我に滅びを与えぬのだ……」

ポレのことばに、床に這いつくばる奥方は、うつむいたまま答えなかった。

真性のマゾであるポレにとって、サディストの女にののしられ、蔑まれるのは至高の快楽だった。

だからこそ、彼女は派手で豪奢な衣装と化粧に身を纏い、驕慢な女を演じて彼をいたぶり続けるのだ。

そしてポレの最大の望みは、完璧な女──「演技」を行う彼の奥方――の手によって、

屈辱と苦痛にまみれながら滅ぼされることだった。

──だが、奥方は、決してその望みだけはかなえることはない。

彼女にとって、この世でただ一つ必要な物は夫であったから。

それ以外の夫の望みをかなえるためならば、彼女はどんなことにでも耐えられる。

本来の自分とは全く別人の姿を取り、決して望まぬ行為を続け、愛する夫を虐げる──。

彼女はその苦痛と心労を、夫への愛ゆえに耐え続けることができる女だった。

いずれも譲らぬマゾヒスト同士が結婚してしまったのだ。その関係は歪まざるをえない。

ポレは、返答をせぬ奥方に舌うちをして部屋を出て行った。

おそらくは、またワイン部屋に隠れるに違いない。

──妻に虐げられて倉庫に逃げ込む情けない自分を演出するために。

……遠くでポレの不機嫌そうな怒鳴り声が起きたのは、書斎を掃除したのをみつけられたからだろう。

ポレは、妻が自分に気を使うそぶりを見せるのを病的にまで嫌う。

だが、あそこまで埃とゴミにうずもれた書斎は丁寧な掃除が必要だった。

骸骨とはいえ、あんなに不衛生な場所で研究を続けるのは好ましくない。

夫の意向に逆らうのは身を切られるほど申し訳なかったが、そうしたことも妻の役目だった。

 

(でも──)

ポレの後姿が去ったの後も、戸口を恋情に潤んだ瞳で見上げながら、奥方は心の呟きを繰り返さずに入られなかった。

(でも、私は、幸せ。──あの方の妻なのですもの)

今日はキスもできた。

夫の体の気になっていた箇所の治療も行えた。

久しぶりに夫の男根に触れたし、精液を飲みさえもした。

考えてみれば、ずいぶんと贅沢な一日だった。

(この間は、世界一の魔女様からもファンレターをいただいたし、最近、幸せすぎて怖いくらい……)

奥方はにっこり笑って立ち上がった。

新しい冒険者がきたら、またあの装束に着替えて鞭を振るわねばならない。

──でも、まあ夫の望みだ。いくらだって耐えられる。

 

 

 

ワードナは身震いした。

奇妙な夫婦愛を語り終えた魔女は、目元にハンカチを当てて、ちょっとぐすぐすしている。

まずい状態になった。

これ以上あの変態夫婦の話を聞かされるのもげんなりだったし、

かといって少し気持ちが高ぶっている妻にうかつなことを言って愛やら恋やらの話題に突入するのも御免だ。

悪の大魔術師は、無難な話題を探した。幸い、それはすぐ見つかった。

「ところで、貴様、何を買いに行ってたのだ?」

賢明な質問──ではなかった。

夫が自分に関心を持ったことに魔女はぱっと顔を輝かせ、いそいそと紙袋からなにかの油の充たされた瓶を取りだした。

「これ……は?」

「あら、まだ巻末特集はご覧になられていなかったのですか?」

ワードナは<月刊魔女之友>の最後の四頁をめくって青ざめた。

「──今月号の巻末特集は、<たまには良人に大サービス! 入門! 前立腺マッサージ!>ですわ。

ちょうど、お勧めの魔法油も手に入りましたことですし……」

魔女は白く細い指をわきわきと楽しそうに動かした。その笑顔にワードナはおびえきった表情になった。

……数分後、迷宮の片隅で男の悲鳴と快楽のあえぎ声が木霊した。

 

 

 

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